下部町の岩欠(いわかけ)の渡辺さんは山から架線を使って木材を伐り出したり、大規模なシイタケ栽培をしている林業一家の跡取りだった。力仕事の一番の協力者は弟さんで、家の中のことは小学校の先生をしている奥さんの役目だった。多いときには、九人もの大家族の長男の嫁の役割は楽なものではなかったが、妻をいたわる渡辺さんの大きな優しさが支えだったという。
渡辺さんの高齢の両親が在宅で療養のあと亡くなってしばらくして、下部町の肺がん検診の異常の知らせが届いた。仕事はもちろん、酒もタバコも元気いっぱいの渡辺さんが病気とは信じられなかったが、右の肺に新しい円形の陰影が発見され、精密検査の結果、すでにリンパ腺に転移のある肺がんと診断された。五十九歳だった。
介護のため教職を辞めていた奥さんの長年の疲れもあり、通院が便利な、近くの飯富病院で抗がん剤による化学療法と手術を受けることにした。渡辺さんの長女は国立大学医学部の学生で、その後の療養のよき相談相手になった。長男は両親とよく似たしっかりしたやさしい性格で、現在も近くに住み頼りになる存在だという。この親子四人がその時の家族だった。
手術から半年後、治ったかに思えたがんが、脳への転移として再発した。県立中央病院の脳外科で手術を受けて、一時は回復した手足の麻痺が再びあらわれたのは、さらに半年後だった。
それからも何回もの手術や化学療法を試みたが、がんは全身に転移し、寝たきりの状態となってしまった。食事が十分とれないため、胃に水分と栄養を補うための管をいれて、最後に家に帰ってきたのは最初の手術から三年めだった。それは本人の強い希望の結果でもあった。
この間の困難な闘病生活に渡辺さんは何も言わず、強い意志でよく耐えたと奥さんは言っている。さらに、介護に疲れた奥さんの身体を心配するだけでなく、次第に不自由になる体と言葉で、「二人の良い子供を持てて幸せだ」「お前と結婚して本当によかった」と、感謝の言葉を忘れなかったという。
週に一回の定期的な往診のほかに、私には果さなければならない渡辺さんとの約束があった。「いつか一杯やりましょう」というその約束を果すために渡辺さんの家を訪れたのは十月の夜だった。一緒に飲む酒はもう決めていた。愛と救いをといた観音経(かんのんきょう)の一節の福聚海無量(ふくじゅうかいむりょう)から名前をとった信州の地酒だ。
すでに食べることができなくなった渡辺さん、奥さん、今はもう内科医となっている娘さん、飯富病院の婦長と私の五人がその静かな宴(うたげ)の参加者だった。
「橋の上に誰か立っていると思ったら、でっかいサル」と、素朴な笑い話を娘さんがした前か後に、奥さんが立たれ、渡辺さんの枕元にすわった。「先生の持ってきてくれたお酒だよ」と、杯に入った酒を唇にそっと湿らすように、指先で丁寧にぬった。
「あの時の主人の満足そうな笑顔が忘れられません」と今でも奥さんは言うのだった。
それから三週間ほどで渡辺さんは静かに亡くなられた。
杣(そま)なりし
亡夫(つま)の靴干す
暮春(ぼしゅん)かな
亡くなられてから三年後、平成十年の都留市ふれあい全国俳句大会で正賞となった奥さんの句である。
広い海の中に無数の光のような命が浮かんでいる。いくつかは寄りそい、輝き、また離れてゆく。ここは生老病死、あらゆる苦難を超えた福聚の海。渡辺さんも奥さんも、私も家族も、亡くなった父や母もすぐ隣にいる無量の海。出会ったことこそ素晴らしいことで、生きることも死ぬこともほとんど差のない海に、私たちは漂っているのかもしれない。
長田 忠孝
1944年甲府市生まれ
甲府一高 北海道大医学部卒
1982年より飯富病院勤務
現在院長 外科医師
当記事は2008年1月28日、山梨日日新聞の「視座」コラムに掲載したものです。
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