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医師会の概要

山梨日日新聞「視座」コラム 連載 長田 忠孝

第6回 おれもこの家で最期を

旧中富町の江尻窪の樋川さんが奥さんの物忘れに気づいたのは奥さんが四十七歳の頃だった。北巨摩から嫁いで以来、家の中のことはもちろん、婦人会の会長なども務めた頼りになる妻の変化は受け入れ難いものだったが、県内外の病院受診の結果は「脳萎縮」で、治療の手段もないというものだった。病状はゆっくりと、確実に悪化していった。
樋川さんにとって、長い間務めた東京電力を定年となり、中富町の責任ある公職や、地域の役職を務めなければならない多忙な時期に重なっていたが、二男一女の子供さんたちは大学生だった長男を含め、すぐに社会人として自立し、母親の治療や家事の手伝いに積極的に協力してくれた。
また、なによりも頼りになったのは三十八組もの婚礼の仲人をしていたことや、当時はまだ残っていた江尻窪地区に古くからあった近隣との人間関係で、どれほど助けになったかしれなかったという。
しかし、軍隊時代は炊事軍曹で、料理や家事には慣れていたというが、病を持つ妻との二人の生活が簡単なことであるはずはない。ましてや、原因不明の病気には治療手段はなく、確実に進行してゆくのである。
発病から二十年程で痙攣(けいれん)発作が起こるようになった。
歩行が不安定になって、簡単なことで転んで、頭に十センチを超えるケガを負った。
そして、ついに歩けなくなった。寝たきり状態となり、なれない介護で背中には床ずれもできた。
この時点で樋川さんは決心した。「もう大学病院の専門医はやめよう。この家で、地元の医者に往診してもらおう」と。
飯富病院からの江尻窪への六年を超える往診が開始された。奥さんは六十八歳、樋川さんは七十四歳になっていた。
床ずれには手こずったが、少しずつ縮小し、ついに治癒した。
徐々に口から食べることが困難になってきたが、一回に一時間以上かける丁寧な食事で、食物の気管への吸いこみを防ぐことができた。実際、七年ちかくの在宅期間中一回、肺炎で入院したのみで、点滴などの注射をしたことはなく、自宅で療養を続けることができた。
「こうすれば、うまく食べれるですよ」。奥さんを抱きかかえるようにして、「どうだうまいか」と話しながらの食事風景に、何もつけ加えることはなかった。
往診開始以前の二十年間と、その後の在宅療養中の苦労を樋川さんはほとんど語ろうとしない。「みんなが助けてくれたから、困ったことはなかった」と。
入院や施設への入所を勧める声もあったが、「院長に往診してもらって、この家でこいつを(奥さんを)最期までみる。そしておれもこの家で死にたい」と固い決心は変わらなかった。
往診を始めてから六年半、「今日は笑ったですよ」と樋川さんが話されてから二カ月ほどして、奥さんは静かに亡くなられた。
若年期発病アルツハイマー型認知証が診断名だった。
それから十年ほどたった今年の九月はじめ、ひさしぶりに樋川さんを訪れた。あの頃の話をお聞きし、新聞掲載の話を終え、帰るとき、すぐ隣の名物の巨木の「いと桜」のあるゲートボール場のベンチで顔見知りの七人の女性が休んでいた。全員が七十歳を超えていて、六人はひとり暮らしである。何人かは両親や義父母を自宅でみとっていた。
「先生、樋川さん喜んだズラー。また来てやれシー」。
物音のほとんどしない江尻窪の空気の中を、誰かの声が通ってきた。樋川さんが最も頼りになったという地域のコミュニティーはまだ残っているのだろうか。この山里に一人残された樋川さんたちの「おれもこの家で最期まで」という願いは実現するのだろうか。
ひとり暮らしの夕餉(ゆうげ)のしたくにはまだ早いが、すでに日は富士見山の稜線(りょうせん)をこえている。暑かった今年の夏もようやく過ぎてゆくようだった。

長田 忠孝

1944年甲府市生まれ

甲府一高 北海道大医学部卒

1982年より飯富病院勤務

現在院長 外科医師

当記事は2007年10月22日、山梨日日新聞の「視座」コラムに掲載したものです。

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