高血圧症と軽い心不全で通院中の九十六歳になる松田さんが、「食べものがつかえるようだ」と、いつもの外来受診時に話された。二十年前に夫と死別してからも、途中から同居した長男のお嫁さんと農作業を続けておられる元気な方なのだが、検査では胃の出口の幽門部を狭くする進行胃がんと胆嚢に早期がんが疑われる小さな病変が発見された。
長男夫婦に同席していただき、本人に「症状の原因は胃がんのためで、できれば胃の一部と胆嚢を切除した方がよい。このままだと数ヶ月後には食事ができなくなるが、問題は九十六歳という年齢です」と、お話しした。
松田さんには五人の子供さんがおられたが、全員が年齢を理由に手術に反対された。しかし、本人の「食べられなくなり、点滴で生きていることはいやだ。手術をお願いしたい」との結論に従うことになった。
予定どおり胃切除と胆嚢切除が行われた。手術当日に不整脈の発作がおこったが大事にはいたらず、術後三週ほどで退院された。
その後は肺炎などで一週間程度の入院はあったが、ふつうのお年寄りのように過ごすことができた。百歳を過ぎるあたりから通院が困難になってきたようだったので往診と訪問看護を開始した。そして、百一歳にあと一カ月となった日に、ご自分の部屋で長男夫婦に看取られて最期をむかえた。
人口の高齢化とともに、当然のことながら九十歳を超えるようなお年寄りの手術や、体に負担の多い治療を必要とする機会も確実に増加しているが、松田さんのように自分で治療法やその後の生き方を決めることができるお年寄りはそう多くない。
松田さんには認知症がなく、手術の必要性が理解でき、このような状況の手術を受諾することができるような精神的な強さがあったのだろう。もちろん、持病の循環器系疾患も重大な合併症とはならなかったような身体的好条件があった。くわえてなによりも、いつも身近に献身的な介護をなさるお嫁さんの存在があった。だから手術の目的を達成し、百歳をこえる天寿を全うできたと思っていた。私の外科医としても、在宅医としても最もうまくいった患者さんの一人だと思っていた。
ところが、今回の原稿のことでお嫁さんにお会いした時のことだった。「十年前、義母が亡くなったのはとても寒い冬の日でした。昼夜が逆転したような介護に、いつになく疲れてしまい、となりの部屋で、ついうとうとしてしまいました。そしたら夫が朝の四時頃に、息をしていないようだといって・・・」と、まるでつらい思い出を語るように話すのだった。もう十年もたったのに、このわずかなスキとも言えないような、油断とも言えないようなわずかな時間の存在をお嫁さんは許すことができないでいるのだった。
在宅の介護の大変な様子と不安感を「まるで、はだしで薄い氷の上にいるよう」とたとえた介護者がいらした。まして最期の時が近づく時、その不安と緊張は極に達するのだろう。
あの時間に愛する人を失ってしまったとはあくまでも本人の思いこみなのだろうが、そのわずかな時間の存在を十年も受け入れることができない介護者がいらしたのだった。
最後のお別れのあと、家族の方々に貴重な時間を共に歩ませていただいた感謝とお礼を述べさせていただくことにしている。しかしそれ以後の残された介護者や家族への特別なかかわりなど必要ないと思っていた。そこで終わりと思っていた。
確かに、今回のお嫁さんのような場合もあるとすれば、家族や介護者の労をねぎらうような機会をその後も持つ必要があったのだろう。家族の死と在宅介護の苦労を受容するために、私たち医療者のしなければならないことはまだまだ多いと、松田さんとお嫁さんが教えてくださったのだと思っている。
長田 忠孝
1944年甲府市生まれ
甲府一高 北海道大医学部卒
1982年より飯富病院勤務
現在院長 外科医師
当記事は2007年9月17日、山梨日日新聞の「視座」コラムに掲載したものです。
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