下部温泉駅に近い国道300号から直接ななめに分かれる細い坂道の飛び石をたどってゆくと遠藤さんの前庭に出る。訪問看護師がターシャの庭のようという季節の花を配置した庭は遠藤さんの娘さんの民子さんの趣味で、そのおもむきは玄関の引き戸の中の,やや暗い屋内にも続いている。平成十七年十月の初めての往診の時、玄関からすぐ左の書斎に遠藤さんは膝(ひざ)に「文藝春秋」を乗せ、穏やかにいすに座っておられた。
明治四十一年に現在地に生まれた遠藤さんは慶応に学び、当時の社会主義思想に触れ、その後の人生をこの思想とともに何冊もの著作と翻訳書を出版し、お酒と犬を愛し、生きてきたのだという。
平成七年の喉頭(こうとう)がんの手術で気管が直接頚(けい)部に開いているため、声を出すことはできないが、まだまだお元気な様子である。持病の甲状腺機能低下症の内服治療を依頼していた地元の医師の退職で、往診が継続できなくなったのが町の保健師をつうじての飯富病院への依頼になったのだった。
それにしても驚くのは、現在は療養の部屋となっている書斎である。四方の壁をしめる書籍と西和辞典を含む多数の辞書。本棚以外の壁面にかかる墨で書かれたいくつもの軸と額。写真は二枚で、北側には法隆寺金堂の壁画の観音像、それに向き合うように南の窓の上には、遠藤さんのもっとも尊敬している大杉栄のポートレート。西と東に堺利彦の流れるような書体の掛け軸。そして、それにはさまれるように死刑宣告之日と記された幸徳秋水の漢詩の額がある。確か冤罪で処刑された秋水のこのわずかな乱れもない端正な書はなんだろうと往診のたびに思い、民子さんに伺っても「この死と罪の二文字以外は読めないんです。ちゃんと聞いておけばよかったんですが」と、にこやかに答えるだけなのだった。さらに、「こちらが寒村先生の書ですの」と示されれば、大学受験用の近代日本史の知識だけの私にも、この部屋のすばらしさと、遠藤さんがただならぬ時代を生き抜いた方だと納得できたのだった。
平成十八年の秋に高齢のため急な病気の発症もあるのでと、今後の在宅療養をどの様になさるか確かめさせていただいた。すぐに二人から自宅で最後までいたいとの返事があった。さらに次の日、民子さんから改めて書面で確かめたところ、入院はしないで最後まで自宅で過ごしたいとの本人の意志が示されたという手紙をいただいた。
それから2ヶ月後急に元気がなくなり、食事もとれなくなったとの連絡が入った。左側の麻痺が出現し、意識の混濁もあり、脳卒中の発作が発生したらしい。在宅療養の継続を再度確かめ、介護保険を利用したベッドや床ずれ防止用のエアマットの導入、訪問看護の依頼を行った。
幸い流動物なら飲み込むことができた。喉頭がんの手術後のため、食物を誤って気管に吸い込んで起こる肺炎の発生はなく、点滴をすることもなく病状はおちついた。
「去年の秋、今後のことを、直接本人に聞いていただいて本当によかったです。ここで療養を続ける決心ができました」。
今はすっかりベテランの介護者となった民子さんは遠藤さんの傍らで続ける。
「私が死ぬときはこの部屋で死にたい。遺体はほかに移さないで、この部屋に置いてほしい。そして、パブロ・カザルスの鳥の歌を流してほしい」。
まだ病気になる前の遠藤さんの言葉だと、民子さんは言うのだった。
スペイン内乱に関する本を出版し、人民戦線を支援した遠藤さんの人生の大切な最後の部分を、今、私たちは確かに、共に歩ませていただいている。
長田 忠孝
1944年甲府市生まれ
甲府一高 北海道大医学部卒
1982年より飯富病院勤務
現在院長 外科医師
当記事は山梨日日新聞の「視座」コラムに掲載したものです。
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