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医師会の概要

山梨日日新聞「視座」コラム 連載 長田 忠孝

第3回 信仰の山に包まれ

十萬部寺(じゅうまんぶじ)は身延山久遠寺から奥の院を経て赤沢の宿に至る七面山参詣の表参道の中ほどに位置している。約四百年前の天正年間に十万部の法華経をあげた祖先が、本山からこの寺名をたまわったという由緒あるお寺である。
また表参道は現在こそ通る人もまれな山道だが、早川沿いの道が整備される前は多く信者がお題目を唱えながら白装束とわらじで七面山を目指したためそう呼ぶのだそうだ。
春の彼岸が過ぎたころ、この十萬部寺の住職の清水さん夫妻が外来を訪ねて来た。静岡の娘さんのところで寒さを避けていたが、暖かくなったのでいつものように十萬部で暮らしたいので、在宅酸素療法用の装置を備えてほしいのだという。
重症の肺気腫の清水さんは血液中の酸素量も低く、レントゲン撮影ではかなりの胸水がたまっている。標高が千メートルを超える十萬部寺での生活はとうてい無理で、むしろすこし入院した方がよいと話したが、決意は固かった。
結局、「週に何人かは参拝の信者さんもみえられるのでぜひとも」という本人の言葉と、「なにがあってもいいですから」との二人の言葉に押し切られ、酸素濃縮器の設置と二週に一度の往診を約束してしまった。
後から聞いた話だが、清水さんは子供の頃からずいぶんな苦労をして修行され、ついには身延山の奥の院の別当職にまでなられた高僧なのだそうだ。二人がそろっていると「仏様のご夫婦のようですね」と信者さんからよく言われたそうで、なるほどあたたかな大きな奥行きを感じる二人のたっての頼みならとも思ったのだった。
古くからの七面山参詣者の宿がある赤沢から、さらに車で十五分ほどの未舗装のつづら折れの山道は一度に曲がりきれないカーブも多く、崩れ落ちそうなガレ場もあり、初めての往診は結構な迫力だった。
やっとたどり着いた庫裏で、帰り道はエンジンブレーキを効かさなければと思っていると、「むらさきのミツバツツジがきれいだったでしょう」と奥さんはいつもの様におっとりと穏やかである。
清水さんはというと病院で診察したときよりもむしろ元気で、背部の打診ではあの胸水もよくなっているようなのである。
「十萬部の空気には病気を治す力があるのですね」などと驚くと、清水さんはニッコリと黙ってうなずき、奥さんは「マアほんとうにそうなんですね」と、あいかわらずのおおらかな調子なのだった。
結局清水さんはそれからも入院することなく、二度の冬を越えて、三度目の夏を十萬部で迎えることになったが、さすがにその頃になると日常の動作も大儀そうになってきた。
「今までが奇跡のようなものですが、病状はかなり重篤で入院治療の必要もあります。最期の時をどこでお迎えになりたいか考えておいてください」と、二人に告げた。
「ここで最後まですごしたいのです。その時までよろしくお願いします」。清水さんから、すぐに答えがかえってきた。
八月のお盆が過ぎ、クズの赤紫の花の散る晴れた日の早朝、奥さんから呼吸をしてないようだとの連絡が入った。もう通いなれた道をたどり、最後のお別れをした。
十萬部寺の雷に打たれた杉の大木の傍らから東の方を眺めると、驚くほど近くに見える富士を背景に身延山が眼前に迫っている。真夏でも三十度を超えることのない空気が流れてゆく。山頂の奥の院あたりから緩やかに下ってくる樹海の中に、往時は多くの信者がたどった十萬部寺、赤沢の宿、そして七面山へと続く表参道が通っているのだろう。ここは山川草木(さんせんそうもく)全てにお題目の宿る信仰の地。清水さんが奥さんとともに生涯を過ごされた地なのだった。

長田 忠孝

1944年甲府市生まれ

甲府一高 北海道大医学部卒

1982年より飯富病院勤務

現在院長 外科医師

当記事は山梨日日新聞の「視座」コラムに掲載したものです。

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