毎年春のお彼岸の頃になると一五年ほど前の往診を思い出す。早川町差越(さしこし)に住む九十八歳の望月さんの在宅ターミナルの時のことだ。当時はまだ車の通れない細い山道を三十分ちかく歩かなければならなかった。時間はかかるが本人や家族が希望しているならばと、スニーカーに履き替えて出かけたのだった。
二軒しかない集落の山側の家から「ナムミョウホウレンゲキョウ アーコマッタモンダー」とお題目のような声が聞こえる。遅かったかと戸を開けてみると、声の主は患者さん本人だった。唯一の同居人の長男のお嫁さんによると、倒れたのは2週間ほど前で、脳卒中発作を起こしたようだった。
望月さんが生まれたのは早川町雨畑の奥で、やはり車の通る道はなく、役場まで歩いて往復で一日かかった。さらに出生届を頼んだ隣のおじさんがうっかりしたため、ほんとうはもう百一歳になるのだという。実に車の音が聞こえない場所に百年も生活した人だったのだ。
昭和三十五年に台風の被害で差越に山崩れが起こり、長男がまき込まれ、妊娠中のお嫁さんと二人が残された。「われには迷惑かけんから生んでくりょう」と孫を育てあげた。再び二人になってからもなかのよい嫁姑だったらしい。十分長生きしたし、嫁に迷惑をかけずにこの家で最期を迎えたいとの思いが、あのお題目となっているのだという。
飯富病院に勤めて二十五年。多くのお年寄りの在宅での看取(みと)りに参加させていただいたが、望月さんのことがことさら印象深いのは、最初の訪問から青葉の季節に亡くなられるまでの二カ月間の山々の豊かな、いのちの萌(も)え出るような変化に混然と溶け合ったような望月さんの人生と最期。そして、そのような場に参加できた満足感、幸福感がひとしお大きかったためなのだろう。
芽吹きの美しさに気づき、春一番に咲く香りの強いズサや女雛(びな)のかんざしのようなキブシの花の名前をおぼえたのもこの往診の時のことだった。
在宅のターミナルケアとはお年寄りの最も大切な人生の最後の部分を共に歩ませていただくことだと思っている。平穏無事な人生などあるはずもなく、望月さんのような数奇な生き方に触れることができるのも魅力だが、介護者や家族の愛につつまれた最期はやすらかで、常に感銘深く、感動的だった。
在宅療養者とその周囲の人のための雑誌「こもれび」はそのような思いを共有できるためにと平成元年に誕生した。
「もう十年も、もっと前、寝たきりのお年寄りが元気だった頃、急峻(きゅうしゅん)な山道でふとしょいこを下ろし休んだ時、額の汗を照らす優しい光があった。こもれびだった。大きな木と陽(ひ)の光がこの働き者の人々に安らぎを与えたように、この峡南の山里で生きてゆく在宅療養者と介護者をつつむ輪を作ってゆかねばならない。」
この「こもれび」創刊号の言葉を今でもそのとおりだと思っている。短くもあった四半世紀の飯富病院での経験から学んだこと、感じたことをお伝えする機会に恵まれたことをたいへんに幸せなことだと思っている。
長田 忠孝
1944年甲府市生まれ
甲府一高 北海道大医学部卒
1982年より飯富病院勤務
現在院長 外科医師
当記事は山梨日日新聞の「視座」コラムに掲載したものです。
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