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医師会からのお知らせ

第30回健康と医療作文コンクール

山梨県医師会長賞

「祖母と僕の八十日」
大森 朝陽
甲府第一高校1年
2021年12月1日、祖母が脳腫瘍かもしれないという知らせが母に入った。前日まで車を運転し、仕事もしていた活発な祖母が突然。その日は僕の前期入試までちょうど2ヶ月という節目の日だった。
入院後の検査の結果、脳腫瘍の可能性が高い為、転院して精密検査をすることになった。コロナ禍の影響からか、転院の予定が立たず、治療できない状態が1週間続いた。その間、祖母から時々電話があり、「あーくんにラインしたいけど、文字がわからなくなって打てないさ。電話のかけ方もわからない時があるさ。」とこれまでと変わらない明るく元気な祖母の声。ただ、話している内容の重大さに返す言葉がなかった。転院前、一日家に戻る事になり、一緒に夕飯を食べた。僕が小さい頃、祖母とよく行った和食の店。これまで機関銃のように喋っていた祖母だったが、この日は一般的なお婆さんぐらいの話す速度になっていた。後に知った事だが、この日、今後の祖母を左右する重大な話し合いが祖母・伯母・母の間でされていた。それは、アドバンスケアプランニング(ACP)と言い、「将来の変化に備え、医療及びケアについて本人を主体にその家族や近しい人、医療・ケアチームが話し合いを行い、本人による意思決定を支援するプロセスのこと」で、まず家族間だけでの意思確認を行っていた。「手術・抗がん剤治療・放射線医療は行うか?」「延命治療を望むか?」「どのように過ごしたいか?」など、祖母の意思を確認していった。病気がわかる前から「ピンコロで死ぬのが理想だなぁ。あははは」とタブー視しがちな死に対する会話を日常的にしていたので、祖母の希望はわかっていたつもりでいたが、脳腫瘍という病気を前に親子でそれについて話し合っていたとは驚きだった。もし僕がその場にいたら何も言えなかっただろう。人の致死率は100パーセントと頭ではわかっているが、自分が死ぬ、親が死ぬなどまだ考えたくない。
12月14日に転院し、生検術という方法で腫瘍の一部を取り検査した結果、非常に悪性度が高い膠芽腫という種類の脳腫瘍だったということがわかったらしい。伯母と母には余命が告げられていた。その時点で僕の入試まで50日を切っていた為、病名は知らされていなかった。医師からは手術や抗がん剤治療の提案があったが、ACPで話し合われていた事で「手術も抗がん剤、放射線治療も行わない、延命治療もしない。退院し、痛みのケアだけして自宅で過ごす」という選択をした。
12月28日、祖母は退院した。翌日、少し早い祖母の78歳の誕生日会を開いた。半月前の祖母とは別人になっていた。一人で歩くことが難しく、両目の右側半分が見えなくなっていた。ただ食欲は旺盛で、大好きなフライドチキンを嬉しそうに食べていた。伯母の家で暮らす事になり、薬を飲みつつ好きな物を食べ、夜には晩酌をして年末年始は過ごした。自分の思い通りに動かない体や言葉にストレスを感じている祖母、日々の介護で気力も体力も限界に近づく伯母、子どもの高校受験と介護・訪問看護・緩和ケア、死後の準備に追われる母、僕には想像もできない闘いをしていたに違いない。
1月19日、祖母は何も食べなくなった。訪問看護師の勧めで以前から準備していた緩和ケアのクリニックに入院することになった。医師から「このままではあと1週間」と告げられ、一進一退を繰り返していた。
2月1日、僕の入試は無事に終わった。今思えば、何も知らないというのは幸せな事かもしれない。内定をもらったその日、祖母の現状を知らされた。もう僕が誰かわからない状態。話はできる時もあるが、母が娘ということがわからない日もある。感情のコントロールができない時もある。母は、「このまま会わずに活発で明るいお祖母ちゃんを焼き付けておいて。」という決断をし、僕もそれに同意した。
2月18日、祖母は亡くなった。会いに行くべきだったのか、弱っていく自分を見せたくない祖母の意思を尊重してよかったのか…。しばらく悩んでいたが、7月に僕の心が晴れた。在宅ホスピス医の講習会に参加し、先生に僕の悩みを相談した。先生から「別の選択の方が良かったのではないか、ではなく選択したものが正解。患者本人と家族の意思で決めたのだから間違いなどない」と心強い言葉をいただいた。また、「死は拒まず受け入れるべき。苦しまずに死ねることが理想」という話も伺った。
祖母は「無駄な経験なんてない」とよく話していた。次の展開に備えておく事、日常的に話し合い意思確認をしておく事、後悔しない毎日を過ごす事など様々な事を学ぶことができた。祖母は僕の心の中では生きている。