佳作
「父さん病んでごめんね。」言葉らしい言葉も発することができなくなっていた母が、父に伝えた最後のメッセージだった。
去年の巨峰の収穫の時期、一房一房丁寧に箱に詰めている母の顔を見て、蝋細工のような不思議な顔色をしているな、と一抹の不安がよぎった。巨峰出荷の季節は実家で一番忙しいときなので疲れがたまっているのだろう、そう思って私は不安を頭から振り払った。
母から電話がかかってきたのはそれから1か月後のことだ。
「先生が家族を呼んでくださいって言われたのだけど、来てくれる?忙しいところごめんね」と、いつものように自分よりも人を気遣っている母の言葉を聞いたとき、1か月前に見た母の蝋人形のような顔色を思い出した。
「どうした?大丈夫だよ。行くよ」つとめて明るく答える私に母は「ありがとう。血尿がでているのよ」と言って電話を切った。
2日後、病院で待ち合わせた母は今までの母ではなかった。会わない1か月で痩せて顔色は黄色味を帯びていた。医師の説明を聞くまでもなく、母は病気であまり良い状態ではないことが私にも想像ができた。母はすい臓がんの診断を受けていた。
母が入院したのはそれから3日後、78歳の誕生日だった。病院で食べる初めての夕食に「おたんじょうびおめでとうございます」と折り鶴が添えてあるメッセージカードを、私はなんとも言えない気持ちで眺めていたが、母は「こんな誕生日もあるのね」と折り鶴を手に取り面白がっていた。この折り鶴は母の形見の一つとして今でも残っている。
母の診断がついた日から、治療の進行状況に合わせて先生は細かな説明をしてくれていた。治療のリスク、予後、予測、素人の母や私に理解ができるように、決して感情的にならないように事実を伝えてくれた先生であったからこそ、母はしっかりと自分の事として病気を受け止めることができていた。「私はもう十分生きてきた。やり残したこともない。だけどみんなが応援してくれるから頑張ってくるね」。手術の日、母は私にそう言って手術室に向かった。小さな背中を精一杯伸ばして自分の足で歩いて手術室の奥へと進んでいったが、入口から見えなくなる直前、母の背中が丸くなり、手で顔を覆った姿を私は見ていることしかできなかった。
それからの母が亡くなるまでの数か月間、退院があり、緊急入院があり、一時帰宅したり外出したり、病気の母と病気の母を看る私たち家族の生活は、常に先生と病院スタッフの方たちに支えられてきた。
入院中の母の楽しみは毎日の先生方の回診だった。夕方の回診時の会話をその日の夜の電話で毎日嬉しそうに話してくれた。看護師さんたちには、インフルエンザの面会制限の中で、母との日々の電話やりとりを応援してもらったこともあった。退院を不安がる母の背中を優しく押して、一時帰宅や外出で母や私たちに家での生活の自信をつけるように取り計らってくれたこともあった。自宅に帰っているときに不安があり電話をするとすぐに対応してくれた。外出時には定刻に電話をくれて体調確認をしてくれた。コロナウイルスの流行によりされに厳しい面会制限になってしまったなかで、どうにか母が私たち家族と会えるようにと様々な提案をしてくれた。医療連携室の相談員さんには、母の病状のことや自宅に残された父の生活のことなど、私が背負っている生活全般の不安の相談に乗ってもらった。廊下で会うと「話だけでも聞きますから、いつでも声をかけてくださいね」とにっこりと笑いかけてくれた。実際私は相談室で何度も泣いた。面会に訪れたときの受付では「こんにちは、今日は暑いですね。ご苦労様です。娘さんも体に気を付けてくださいね」と受付担当の人の何気ない言葉に、沈み込んでいる気持ちがどれだけ救われたことか知れない。
令和2年8月31日、病院からの連絡で駆け付けた父と私たち三姉妹の到着を待つようにして母は逝った。その日の担当の看護師さんが「きっとみんなが揃うのを待っているのだろうなと何度も思いました。ご家族のこと大好きでしたから」と言って、母と過ごした病院での思い出話をしてくれた。先生は「もう少し自宅で過ごす時間を作ってあげたかったです」と言って見送ってくれた。
病気になったことは決して良かったとは思えないが、こうして先生や看護師さん、様々な院内のスタッフの皆さんに見守られながら治療ができて、母は幸せだったなと改めて思った。もしこの場を借りてお礼を伝えることができるなら、先生や看護師さんをはじめとして、病院のスタッフの皆さんに伝えたい。
母や私たち家族が最期まで頑張れたのは、みなさんのおかげだと思っています。最期まで応援していただき、ありがとうございました。