佳作
僕の母は「ちょっと」が多い人だった。「ちょっとは帰って来なさい」とか「ちょっと、ちゃんと食べてるの」とか。僕はそんな母の「ちょっと」が鬱陶しかった。だけど僕はそれを拒否できずにいた。少なからず育ててもらった恩を感じていたからかもしれない。僕は母子家庭で兄弟は4人。だから女手ひとつで家庭を守ってきた母の苦労は計り知れない。しかも僕らはしょっちゅう風邪を引きそのたび母に迷惑をかけた。
そんな母から去年の5月「ちょっと医者に連れていって欲しい」と連絡がきた。母が病院?これは何かあるのかもしれない。僕は慌てて有休をとって甲府へ駆けつけた。僕の嫌な予感は見事に的中した。そこで下された診断は、炎症性乳がんという珍しい悪性のがん。だけど母には乳がんとだけ伝えられた。それから僕にだけ伝えられた余命半年の事実。「進行が早いがんなので、そんなに長くは……高齢ですし、長くても本人がつらくなりますので、ね。」ああ、母はもう長くないんだ。僕はこの現実をひとりで受け止めきれなかった。帰りの車内。僕は不安で押し潰されそうになるのをこらえるので必死だった。なんとかバレないように、どうでもいい話を沢山した。だけど隠しごとがあると余計におしゃべりになるのが僕の悪い癖だった。「お前、なんかおかしいぞ」母は疑った。その夜、すぐさま実家に兄弟が集まった。久しぶりの実家。洗面台には湿布薬が見本市みたいに並んでいた。だいぶ前から胸の痛みが出ていたのだろう。なぜもっと早く言ってくれなかったんだよ。だって先週、彼女の写真を送った時は「ちょっといい娘じゃない」って喜んでたくせに。なんで、なんで。僕は怒りと哀しみが入り交じった気持ちになった。そして母が寝たあと、僕らは話し合った。告知をするかしないか。もう少し様子をみようという兄に、もう覚悟を決めてもらおうという弟。そしてその狭間で揺れる僕。がん患者にとって、言って欲しい言葉、してもらいたいこと、恐らくそれは人によって違う。だからこそ、僕らは悩んだ。しかし母はすべてお見通しだった。「ちょっとちょっと、あんたたち、余命でも言われたんかい」完全に母は勘づいていた。だから僕も言わずにはいられなかった。
こうしてわずかな人生を歩むこととなった母だが、その歩みは決して緩やかではなかった。がんの痛みがそうさせなかった。母は時に緊急外来に駆け込むほどの痛みを訴え、そのたび辛い姿を見せた。生きることが死ぬほどつらいなんて。僕の目にはそう映った。早く楽にしてあげたい。そう思う自分は親不孝なのか。薄情者か。ならば僕ができる親孝行って何なのか。そんなことを考えるうちに僕は彼女に相談してみた。「そろそろ結婚したいんだけど」「いいんじゃない」「えっ。だって定職につくまでは嫌だって」「もういいんじゃない?お母さんのことでしょ?」こちらもお見通しだった。彼女はわかっていたのだ。僕が早く母を安心させたいと思っていることに。だけど結婚式を挙げるにしても母が参列することは体力的に不可能に近い。おまけにいつ容態が急変するかもわからず、そんな無責任なことはできない。僕らは八方塞がりだった。だけど母の容態はどんどん悪化の一途をたどった。これまでは通院で治療を受けてきた母が、とうとう痛みに耐えきれず急遽入院することになった。「そろそろ覚悟を」
担当医の言葉は落ち着きを放つ分、どこか冷たく感じられた。僕はすがるような思いで尋ねた。「こちらで結婚式ってできませんかね。彼女のドレス姿を見せるだけでいいんですけど」「んー」僕らに長い沈黙が訪れた。それから医師は「上と検討してみます」とだけ言った。だけど次の日、僕らはなんと許可をもらえた。まさに青天の霹靂だった。すぐに彼女と自由が丘にある中古のドレスショップに出かけ、その帰りに指輪も買った。
そして当日。個室の母を訪れて、たった10分間の結婚式を行った。余興もBGMもご馳走もない。だけど母は泣いて喜んだ。美男美女なんて言ってさ。だけど帰りがけ、「健診でも受けてたらもうちょっと」とぼやいた。もうちょっと長く生きられたのに、だろうか。僕は少し下を向いた。本当はもっと長生きさせてやりたかったって思った。四日後、母はホッとしたように安らかな眠りについた。
最期に母は僕らにちょっと面白い言葉を残した。「備男備女」である。長生きをするために備えよということか。真意はわからない。だけど僕らにはこの年から夫婦で人間ドックに行くようになった。ちょっと高いけど僕らが元気でいることが母への供養であり、それが最高の親孝行だと思うから。僕はそう信じている。