山梨放送賞
「見えない心の健康への意識」
川原 典子
甲陵中学校3年
死んでしまいたいと思った。生徒会長としての荷が重く、気疲れしてしまった上、起立性調節障害になってしまい、学校にすら行けなくなってしまった時に心からそう思った。
会長なのに周りに迷惑ばかりかけて、学校に行ったとしてもまともな働きをしない自分が嫌になり、死んでしまえたら迷惑をかけることもなくなるのではないかとばかり思っていた。しかし、死にたいと同時に死にたくないとも心から思った。この世から消えることができたら楽なのに、こんな自分なら消えてしまった方が良いのにと思えば思うほど、心の底の死にたくないという本能的な願いが出てきて、二つの思いの間でハッキリとしない自分勝手な自分がますます嫌いになった。
死にたいけど、死にたくない。そのため、リストカットやオーバードーズと呼ばれる薬の過度摂取をして、自ら自分につらい思いをさせた。苦痛とともに、死ぬのは苦しいこと、悲しいことだと何度も言い聞かせた。その時は生きるのがとても辛く「しんどい」という言葉しか出てこなかった。自分を嫌いになればなるほど、「自分」は「私」を殺そうとし、それでも生きていたいと思う私が、私を殺させないために自分を傷つけ自分を殺していた。生きていたいからこそ死が怖く、自ら逃げ道として選ぼうとしている自分がひどく弱虫に見え、そんな自分が嫌いになり、また私を殺そうとする。
そんな日々から脱却できたのは母のおかげだろう。母は夜な夜な自己嫌悪に陥った私の話を真摯に聞き、私の頑張りや存在を認めてくれた。自分など生きる価値が無いと思っていた私にとって救われた瞬間だった。そして、自ら死を選ぼうとしていたことがとても愚かに感じた。世界には明日を生きようと必死にもがいても命を落としてしまう人が沢山いる。私は恵まれて今ここにいるのにも関わらず、自分で終わりを決めてしまうのはそんな人達への冒涜だと思った。
今思えば死んでしまいたいと願っていた時期は心の病気だったのかもしれない。今は死にたいと思っても踏み止まることができるが、その時期はすぐに実行に移してしまいたいと思ってしまい、「生きる」ということが死ぬよりずっと難しく思えた。
病気といえば、目に見える形の病を想像してしまいがちだ。私自身、起立性調節障害がまだ治っておらず、朝起きることで体調が悪くなってしまうことがある。起立性調節障害とは自律神経の病気で「心」が原因となり、めまい、頭痛などの症状が現れるものだ。そのため学校には午後からの出席が多くなってしまい、朝から学校に行くことができる日は、限られてしまう。他の人から見れば楽な時だけ学校に来ていて、他の日はズル休みしているように思うかもしれない。心の病気は目で見て分からず、自分から言わない限り健康に見えてしまうからだ。
辞書によると「健康」とは体や心が健やかで、悪いところのないこと。肉体的、社会的に調和がとれている良い状態だ。普段私達が健康と聞いてイメージするのは風邪を引かないなどの肉体的健康であり、精神的な健康は二の次になってしまう。
心の健康は非常に揺らぎやすいのではないか。何気ない言葉やちょっとしたストレスでも健康を脅かす凶器となり、簡単に心は傷ついてしまう。辛いと思いはじめた時が病気になった瞬間ではなく、日常の至る所に病気への落とし穴が潜んでいるため、気付いた時には自分一人ではどうにもできなくなっていることが多い。
私達は十代という不安定な心理状況にあるからこそ心の健康への意識を高めるべきだ。周りの人への言葉遣いやちょっとした気遣いで救われる人もいるのではないか。そして、いくら気を付けていても怪我をしてしまうことがあるように、いくら気を付けても心の病を患ってしまうことがある。自分なんかなるわけがない。と思っていた私も、心、神経の病気にかかった。
もし周りの人や自分が心の病気になってしまったら、ネガティブ、メンヘラなどの一言で済ませず、相手や自分と向き合うことが大切だと思う。いくら暗い話でも話を聞き、相手を認めることで心の負担が少しずつ減っていくのではないだろうか。
心の健康はとても崩れやすく、もろい。そのため、風邪予防で手洗いうがいをするように、「心の病気」を意識し、相手を思いやるという予防を心がけるべきだろう。