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医師会からのお知らせ

第24回ふれあい医療作文コンクール

佳作

「ただいま母はおりません」
黒澤 奈々恵
山梨大学附属中学校3年
私の両親は共働きである。母は夜8時半を過ぎても帰ってこないことがある。休日に家族で出かけていても職場からかかってくる電話一本で母はそちらに行ってしまうこともある。月に数回、夜勤もある。だから、母に電話がかかってくることがあっても大抵母はいないので、私は決まってこういう。
「ただいま母はおりません。」
幼い頃からの決まり文句だ。しかし、これらのことは私にとっては日常であり、幼い頃からこれが普通だと思っていた。なぜか。それは私の母が公立の病院で働く医者だからである。
私から見た医者としての母のイメージは、家の中とは少し違う。誰にでも明るく接しているところは家でも病院でもあまり変わらない。しかし、家の中ではどちらかというと抜けているところが多い。例えば、家族でおすしを食べに行った時のこと。母は旬のカツオがのった美味しそうな一皿を食べていたのだが、なぜか上にのっていたネタを落とし、更にそれに気付かぬまま口に入れたのだ。そして一言。「この魚すごく柔らかい。食べていないみたい。」父も私も唖然としてただ母を見つめてしまった。しかし、医者として電話越しにてきぱきと薬剤の指示を出す姿や、患者のために院内を奔走する姿は家とは打って変わって凜々しく見える。
ある日、母への用事があり、母の勤務する病院を訪れた時、不意に「黒澤さん?」と声をかけられた。全く知らない人だったので、少々戸惑いつつも返事をした。するとその人は、「やっぱりね。お母さんにそっくりだもの。私はあなたのお母さんにみてもらっているの。先生はいつもすごく丁寧な説明をしてくださって本当に感謝しているわ。」そういって私に何度もお礼を言った。その時、私は医者としての母の顔を知ると共にとても誇らしい気持ちになった。
そんな母のもとに、また新しい患者が現れた。しかし、その人は母が最も望まぬ患者だったのではないだろうか。母の母、つまり、私の祖母が今年の春に末期の癌で入院したのだ。ある日、親戚が集まる病室で、母は祖母の病状の説明をした。重い空気の病室で、既に泣きそうな親戚がいる中、母はそのような素振りを少しも見せなかった。しかし、これからのことや病気の状況などを皆に伝える母の姿が、私にはどうしても痛々しく見えた。私よりも母の方がずっと辛いはずなのだから。たまらなくなった私は家へ帰った後、誰にも見られないようにこっそりと泣いた。とても母の前では泣くことができなかったのだ。
祖母の闘病生活が長くなるにつれて、家にいる時の母は疲れて見えることが多くなり、家の空気も沈んでいった。しかし、病院で見る医者としての母は違った。今まで通り笑みを絶やさず、その凜々しさも以前と変わらぬままだった。人のことを考えている場合ではないほどに辛いはずなのに、それでも母は患者のために飽くまで一人の医者としてあり続けていた。ただ、娘の私からしてみればそんな母がいつか壊れてしまいそうに思えてしかたがなかった。何か自分にできることを考えても、結局何もできず、声をかけようにも上手い言葉が見つからない。自分の無力さが情けなくなると共に苛立ちすら覚えた。それを口に出すと、母はその気持ちがあるだけで十分だと言ってくれるのだった。そう言われる度に私は少し救われた気分になったが、それ以上に母のことが心配になった。「いったいどこまで他人に優しいのだろう。なぜもっと自分のことを考えないのだろう。」母が無理をしていると感じる度に、そう思うようになった。
ある日、帰ってきた母がいつもよりも明るく見えた。祖母の容態が少しよくなったらしい。ほっとした表情を浮かべる母を見て私も安心した。末期の癌が治ることは難しいが、その時は少しでも母が張り詰めたものを緩められたことが嬉しかったのだ。
祖母が入院してから3ヶ月がたち、何度も危ない時を迎えては越えていった。その度に母を近くで見てきた私は気がついた。母の、自分よりも他を優先してしまうところは、もはや医者としての特性であり、私などがどうにかできるものではないのだ。だから、私は少しでも母の心労が減ることを願って毎日を過ごすことにしている。
中学3年生になった今でも時々「お母さんが忙しくて大変でしょう。寂しくないの?」などと言われる。でも、それは違う。私は誰よりも優しく強い母と過ごす中で、そんな思いをしたことはない。だから、電話口で例の決まり文句を言うときも、実は少し誇らしい気分なのだ。私の母は、今現在進行形で沢山の人のために働いています。と言う思いを込めて、
「ただいま母はおりません。」